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勤労者

職業の種類を問わず、事業主に雇用される者。 くりっく365はカメラ・オブスクラにポワンティエなどの着想を得てはいても、カメラ・オブスクラを直接描画には用いてはいないと考える研究者もおり、論理的に持説を述べている。さらに『絵画芸術』には黄色の書物が見られるが当時黄色の書物が存在しなかったとの調査もあり、『牛乳を注ぐ女』におけるテーブルと壁面の一点通し図法上の不整合もしばしば紹介されることから、記録上の正確さや作品と(眼前の)事実との厳格な対応に対する固着は無かったと推察できる。現代では画家が写真を制作に使用することを批判する向きもあるが、現代における写真やカメラの使用と、カメラ・オブスクラを昔の画家が用いたこととは、本質的・根本的に事態の質が異なるものではない。そして、写真を制作における図像の基底に用いる画家は多い。一般的に言って、画家などの作家が撮影できる写真は写真家が撮影する写真に比して限定的なものであり、実景よりも平板であるが故に制作が困難なものになる場合もあるが、写真が本人の制作にとって利用価値が高いならば、作家は臆することなく写真を制作に用いるべきだろう。現在では、スナップ写真を撮ったり、行事や日常の場面を撮影する人も多い。 20世紀の間に、芸術写真とドキュメンタリー写真の両方が英語圏の美術界とギャラリー業界に受け入れられて来た。アメリカ合衆国では、少数の学芸員が、写真をそうした業界に取り込ませるために生涯を掛けた。中でも傑出した学芸員・編集者はアルフレッド・スティーグリッツ、エドワード・スタイケン、ジョン・シャーカフスキー、およびヒュー・エドワードである。 FXは1920年代の日本においても最新動向として紹介され、1921年に東京では福原信三が写真芸術社を、それに先立ち大阪では上田竹翁(別名:上田寅之助、箸尾寅之助、竹軒楽人)が次男の箸尾文雄や写真家の不動健治らとともに芸術写真社を興し、雑誌を発行して盛んに宣伝した。東京だけでなく、この時期には大阪も芸術写真の一つの中心地であり、数多くの「写真倶楽部」が活動していた。漫画家の手塚治虫の父親もこうした「写真倶楽部」に参加し、アマチュア写真家として作品を発表していたという。 写真が芸術かどうかは、しばしば議論されるところである。こうした議論は、写真の初期から存在していた。写真はしばしば「ただの記録技術であり、芸術ではない」という攻撃を受けてきた。単なる画像の機械的生産に過ぎないと主張するひともいる。 たとえば日本の場合、森村泰昌は名画の中などに(ときには複数の)自分が「侵入」することで、新たな表現スタイルを獲得している。澤田知子は自動証明写真機で撮影した自分の姿に始まり、セルフポートレイトを駆使した写真活動を展開している。今道子は魚や野菜や衣類を使った造形を写真に収めている。3人ともその活動は「画像の機械的生産」の範囲内かもしれないが、いずれも写真家や美術家若しくは芸術家に含まれている。 写真は対象の選択、対象と撮影者との物理的距離、対象の様態、撮影するタイミングなどによって、撮影者の心や世界に対する態度を反映する。写真は少なくともこの意味で確かに撮影者の創作物であり、表現の手段である。そして同時に印画紙出力などで介在する技術者の手腕の産物でもある。また撮影対象や画像加工技術などにより著作者(創作者)の発想や手腕が写真を確実に芸術(美術:視覚芸術)に属するものといえる。 しかし、だからといって「すべての写真が絵画や彫刻のような芸術である」ということは記録手段伝達手段としての価値が他の表現手段よりもある(報道写真、Wikipedia向きの写真など)以上、あり得ない。それは「法律や取扱説明書が文芸・文学ではない」ということと同じであり、写真がある程度「中立性」「検証可能性」に耐えらる媒体であるからだ。言い換えれば、「写真は芸術に留まらない存在である」ということである。鉛筆で、小説も詩も規則もマニュアルも書けるし、略図も絵も描くことができる。カメラ類も同じような広がりを持つ機能を果たすことができるということである。 現在も情報伝達の手段としての「絵」はあるが、むしろ、写真の発達によって客観性・写実性では写真に一歩譲る絵画が、描き手(えがきて、かきて)の調子の構築、筆致・筆捌きその他で創作者の主観を反映することが望まれる芸術に特化するようになったと、解釈できる。 こういった点で、「写真は芸術かどうか」は「落書きの絵が芸術かどうか」という問題とは根本的に異なる。 ビデオ・アートは、映像と音声を使う芸術ジャンルのひとつである。記録媒体としてビデオテープを使うことが多い[1]。これによってフィルムを使う実験映画と区別される。1960年代に始まり、機材が低価格化した1980年代以降は爆発的に制作者の数を増やし、現在にいたっている。 一般的な劇映画・テレビ放送ともっとも異なる点は、観客を楽しませることを目的としていないことである。そのため、作品によっては観客に忍耐を強いるものがある。 最初のビデオ・アート作品は、1963年にナム・ジュン・パイクがドイツのヴッパータールのパルナス画廊で展示したインスタレーションとされている。13台のテレビ受像器にそれぞれ改造を施し、テレビ画像を歪めたり白黒反転させたりした。1965年にはニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで個展『NJパイク−エレクトロニックTV実験、3台のロボット、2つの禅箱、1つの禅缶』を開き、歪んだ画像やさまざまな模様を映しだす『磁石テレビ』を発表した。パイクはビデオ・アートの開拓者であるとともに、2006年に死ぬまでこのジャンルにおける巨大な存在であり続けた。 ビデオ・アートの歴史において重要なハードウェアは1964年にソニーが発売した世界初の家庭用VTR「CV-2000」(ポータパックの愛称で呼ばれた)と、1966年に発売した世界初のポータブルVTR「DVC-2400」である。これらの発売をきっかけに、実験映画、コンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アートのアーティストたちが続々とビデオ制作をはじめた。 アメリカでは、パイク以外にはビル・ヴィオラが比較的よく知られている。ほかにビト・アコンシ、ジョン・バルデッサリ、ジョーン・ジョナス、ダン・グレアム、ピーター・キャンパス、ウィリアム・ウェッグマン、マーサ・ロスラーらが有名。スティーナ・ヴァスルカ、ウッディ・ヴァスルカ夫妻のようなCGを使うアーティストもいる。 ヨーロッパのアーティストでは、ポーランドのヴォイチェフ・ブルシェヴスキ、ドイツのウォルフ・カーレン、オーストリアのピーター・ウェイベル、イギリスのデイビッド・ホール、スイスのピピロッティ・リストなどが知られる。 日本で比較的言及されることが多いアーティストは、松本俊夫、出光真子、山本圭吾である。 パフォーマンスアートは時間、場所、パフォーマーの身体、パフォーマーと観客との関係という、四つの基本的な要素を含むすべての状態において成立しうる。 その作品の行われる場所は美術館、ギャラリー、カフェ、劇場、路上など非常に多様である。 また行われる時間や長さも多様である。1回限りのものもあれば、何度も演じられるものもある。一瞬で終わるものもあれば、映画並みに長いものや果てしなく続くものもある。 パフォーマーは演劇とは違い、普通はキャラクターを演じず、芸術家自身としてパフォーマンスを行う。 即興の場合もあれば、練られた脚本に従って練習を入念に行い演じられるものもある。そのストーリーは一般的な起承転結や物語りに属しないものもあるし、そもそもストーリーが全く存在しないものもある。また観客は一方的に見るだけでなく、参加や助力を頼まれたり、場合によっては危害を加えられることもあるなど、パフォーマンスに巻き込まれることが多い。