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育児休業給付

雇用継続給付の一つ。1歳(その子が1歳に達した日後の期間について休業することが雇用の継続のために特に必要と認められる場合として、厚生労働省令で定める場合に該当する場合にあっては、1歳6か月)に満たない子を養育するための育児休業中や育児休業終了後に職場復帰した被保険者(一般被保険者のみ)に対し支給される。 @育児休業基本給付金 育児休業中の被保険者において賃金が低下した場合 A育児休業者職場復帰給付金 被保険者が休業終了後に職場に復帰した場合 予備校に割拠していた後周の世宗は中国の統一を目指して、南征を試みるようになっていった。当時、南唐と後周は淮河を境にしていた。淮河は大河であるため、後周の軍が淮河を渡って南唐を攻撃することは困難であった。ただ、冬期には淮河の水位が下がり、渡河が容易になる。それゆえ後周が南唐に侵攻したいのならば、冬期以外になかった。南唐も愚かではなく、冬期だけは淮河の川沿いに軍勢を展開していた。しかし、後周が攻めてくることがまったくなかったので、南唐はお金の無駄遣いだとしてこの制度をやめてしまう。 955年11月には、世宗自らが率いた後周の軍勢が南唐に侵攻し、正陽(現在の安徽省鳳陽県)で南唐の軍勢を大いに破り、寿州の城を囲んだ。さらに趙匡胤に命じて?州を占領させた。翌956年に南唐は寿州へ救援軍を差し向けるが、世祖自ら率いる後周の軍に紫金山(寿州城の東北)にて敗れ、ついで寿州は後周に占領された。さらに濠州・泗州・揚州・泰州が後周に奪われた。この頃になると、南唐の軍隊は戦意を大いに失っていた。例をあげれば、泰州の刺史(長官)は敵前逃亡していたし、?州では刺史がその部下に殺され、その部下が後周に降伏するということも起きていた。明くる957年には楚州が後周に奪われ、両軍は長江を挟んで対峙した。しかし、南唐はすでに後周の敵ではなく、長江での水軍同士の戦いで南唐は大敗を喫した。 ここに至って、李mは後周へ服属することを決めた。後周の世宗はこれを受諾し、講和して世宗は軍勢を引き返していった。この講和で決定したとは次の通りである。 塗装工事・長江以北の土地を後周に割譲 南唐は後周に臣下として仕える 南唐の君主は皇帝の称号を使うのをやめ、国主と称する 南唐独自の年号を使うのではなく、後周の年号を使う 李mは名を李景に改める mという文字が後周の皇族に使われており、これを忌避したため さて、後周では世宗が死に、わずか7歳であった子の恭帝が即位した。趙匡胤はこれに乗じ、恭帝から禅譲を受け、皇帝となって宋を建国した。南唐はこれに対し、今まで後周に仕えていた通りに宋に仕え続けた。年号も宋のものを使った。だが、李景は宋が強大であることを恐れて、961年に南昌に遷都した。旧都の金陵は太子の李Uに守備させた。同年、李景は死亡すると、李Uが金陵で即位した。このことで、首都は再び金陵に戻った。李Uは、宋の太祖(趙匡胤のこと)に、李景を皇帝として弔ってもよいかと奏上した。太祖はこれを許し、太祖は皇帝として弔われることになった。 宋の太祖は中国統一を目指し、各国を理由をつけては滅ぼしていった。南唐の南方に割拠した南漢が971年に宋に滅ぼされると、南唐はますます宋を恐れた。そして、自国が従順であることを示そうとした。例えば、それまでは中書省・門下省といった本来は中央政府が用いる役所の名前を使っていたが、それを左内史府・右内史府と言い換えたりした。また、南唐で爵位が○○王とされていたものはみな○○公とした。これは、王という爵位は皇帝が与えるべきものであり、皇帝でない国主ごときが本来与えられるようなものではないからである。 おせちのように、南唐は国土を保全するために努力し、宋が南唐を攻撃する大義名分を与えさせなかった。しかし、974年に太祖が李Uに来朝するように命令した際に、李Uは病と称して行かなかった。太祖はこれを口実にして、曹彬・潘美に命令して南唐に侵攻した。翌975年に宋の軍勢は金陵を包囲した。太祖から「民衆に乱暴を働いたりしてはいけない。力攻めではなく、威信を以って城を落とすのだ」と言われていたこともあり、力攻めをせず、包囲を続けて南唐が降伏するのを待った。 李Uは軍勢を帰してもらうために、徐鉉を使者として太祖のもとに遣わした。徐鉉は「李Uに罪はありません。陛下が攻めるのには大義名分がありません。Uの小さいものが大きいものに仕えたさまは、まるで子が父に仕えるようでした。罪や過ちはありません。どうして攻撃なさるのですか」と言った。これに対し、太祖は「それではお前のやっていることは父と子を2つの家に分けているではないか。そんなのでよいのか」と答えた。徐鉉はこれに反論することができなかった。徐鉉はもう一度太祖の下を訪れ、説得を試みた。しかし、太祖は怒って、「これ以上言うことはない。また何の罪があろうか。ただ天下は一家である。寝ているときに、他人がいびきをかいて寝ているのを許すか、いや許さない」と答えた。この剣幕を恐れた徐鉉はやむなく帰っていった。 金陵の包囲は10ヶ月にも及んだが、ついに李Uは降伏し、ここに南唐は3代にて滅んだ。なお、李Uは宋の都の開封に移され、違命侯の爵位を賜った。太祖の次の皇帝の太宗の時代には隴西公とされた。978年に死去したが、太宗に毒殺されたとも言われている。 五代十国時代に華北では、異民族の侵入もあり、戦乱が相次いでいた。このため、華北に住んでいた文化人達は南方に避難した。南唐もこういった文化人達の避難の受け皿となり、文化を大いに発展させた。 李景・李Uという2人の南唐の君主は、南唐二主と称され、詞(漢文で書かれた詩の一種で、節をつけて歌われた)の名人として知られる。とくに李Uは中国文学史上最高の詞の作者とされている。 絵画の方面では、澄心堂紙とよばれる最高の紙や、李廷珪により最高級の墨が開発されたり、技巧を凝らした硯が作られた。この時代以前は硯にあまり頓着しなかったので、硯が芸術品的価値を持つようになったのは、南唐の文化の賜物であると言える。また、山水画の名画家である董源もこの国に仕えていた。 徐鉉・韓煕載などは名文家として知られる。 南唐は江南地方を安定的に支配し、この地方の開発を進めた。後の南宋時代にはこの地域は大穀倉地帯になるが、それもこの頃の開発によるものである。さらに、淮南で製塩事業を行い、国家の財政を潤した。 中国では伝統的に銅銭を使用していたが、南唐では964年から鉄銭を鋳造しはじめた。しかし、民間は鉄銭を無価値なものだと思い、価値のある銅銭を貯めこんで、売買に用いなくなってしまった。結局、鉄銭と銅銭は等価であったのだが、実際の商業上での使用では鉄銭10枚で銅銭1枚分の価値に等しくなるように運用されていった。このため、政府もこれを追認して、鉄銭10枚は銅銭1枚と価値が等しいものとした。 1200度以上で焼成される高火度釉で、植物灰を主成分とし、酸化第二鉄(「弁柄(ベンガラ)」とも呼ばれる)を含有する。ボディ(胎)から釉に拡散する鉄の寄与がある場合もある。焼成によって原料の酸化第二鉄を還元することで酸化第一鉄ができ、青〜緑を発色した透明ガラスになる。還元の完全さによって、黄色がかった緑から、空色まで発色が大きく変化する。 現在では石灰バリウム釉を基礎釉とし、珪酸鉄を着色剤として使用することで澄んだ青色を得ることができるが、本来の青磁は厚がけした灰釉である。