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育児休業
育児休業法に基づき、1才未満の子を養育するために労働者が請求できる休業
為替の興福寺の僧大雅が、羲之の行書を集字して、開元9年(721年)に建てたものであるが、碑は上半分を失って700余字を残しているため、半截碑ともいう。また、文中、「矣」の字を「呉」と誤っているので、呉文断碑ともいう。明の万暦年間に長安城内の草中より発見された。
喪乱帖(そうらんじょう)
王羲之の手紙の断片を集めたもので、書簡のはじめに「喪乱」の句があるのでこのように呼ばれる。縦に簾目(すだれめ)のある白麻(はくま)紙に、双鉤?墨で模したものであるが、肉筆と見違えるほど立派である。現在、日本で御物になっているが、右端の紙縫に「延暦勅定」の印三顆(いんさんか、印は顆で数える)が押捺されているところから、桓武天皇の御府に既に存在していたことが分かる。
孔侍中帖(こうじちゅうじょう)
『哀禍帖(あいかじょう)』『九月十七日帖』『憂懸帖(ゆうけんじょう)』の三帖から成る。一括して『九月十七日帖』また『孔侍中帖』という。『喪乱帖』と同じ紙で、双鉤?墨。また『哀禍帖』と『九月十七日帖』との間の紙縫に、同じく「延暦勅定」の印三顆が押捺されている。現在は前田育徳会蔵。国宝。
快雪時晴帖(かいせつじせいじょう)
姨母帖(いぼじょう)
奉橘帖(ほうきつじょう)
外貨預金とは、漢字の手書き書体のひとつ。一画一画を続けずに、筆を離して書く。方形に近い字形である。横線は、筆の打ち込み、中間の線、筆の止めがはっきりしていることが多い(三過折)。現在では漢字のもっとも基本的な字形であるといえる。楷書体は比較的新しい時代に生まれた。 なお現代日本で一般的に書道などで楷書を学ぶといった経験が少なくなり、活字印刷を通してしか漢字を目にすることがなくなってきたことから、楷書を活字体(明朝体)の字体(字の骨格)をなぞったものと考える向きがある。しかし、この活字体は康熙字典の書体をもとにしており、初唐に確立した伝統的な楷書体とは異なるものである。
IPOは、漢代の標準的な書体であった隷書体に代わって、南北朝から隋唐にかけて標準となった書体である。行書体が確立した時代に発生したため、これらの中では最後に生まれたとされている。唐時代までは「楷書」とは呼ばれず、「隷書」「真書」「正書」と呼ばれていた。書体の名称として「楷書」という用語が普及した時期は宋時代以降である。 現時点で最古の楷書は、1984年に発掘された呉の朱然(ACE182-249)墓から発見された名刺である。しかし、それ以後も、隷書と楷書の両方の特徴をもつ中間的な書体が並行して行われていた。これを今隷と呼ぶ。北涼時代の写経に例が多いので北涼体と呼ぶこともある。また、中国では楷隷、晋楷とも呼ぶ。当時は、楷書の字形が標準化されていず、異なった字形の文字が多かった。この多数の異体字を六朝別字と呼び、専門の字典として碑別字がある。
書体が洗練されたのは、初唐の太宗の時代であり、優れた能筆家が多数輩出した。その多くは、石碑の拓本として現代に伝えられている。特に有名な人物として、初唐の四大家と呼ばれる欧陽詢・虞世南・?遂良・薛稷がいる。中でも欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(きゅうせいきゅうれいせんめい)は「楷法の極則」を伝えるものとして名高い(画像参照)。
また楷書の四大家(欧陽詢・顔真卿・柳公権・趙孟?)の一人である顔真卿は小篆をもとに楷書の字形を標準化しようとした。その特徴のある字形を顔体、書法を顔法という。科挙の盛行に伴い楷書の標準化がより必要になり、干禄字書、開成石経などが制作された。
株として使われる楷書体(かいしょたい)は、清朝初期の木版印刷に使われた軟体楷書体・清朝体などと呼ばれる書体をもとにしている。その書体は明朝体の影響を受けつつ、康熙帝の好んだ明末の董其昌、乾隆帝の好んだ元の趙子昂の書風の影響を受けている。この軟体楷書は、日本の教科書体、弘道軒清朝体、正楷書体、台湾の標準楷書体(標楷体)などに見られる。それ以外にも、宋朝体、明朝体、ゴシック体など多数の書体がある。
木版印刷は唐時代に遡るが、楷書書体が洗練されたのは、宋時代である。大部分の木版印刷は整版(普通2頁を1枚の木板の片面に彫刻する)で制作された。宋代に印刷された本に使用された楷書体のうち特に普及した書体を、明時代後半以降に、模倣した印刷書体が宋朝体である。明代後半には書物の商業的印刷刊行が盛んになり、分業で能率的に彫刻でき読みやすい字体として、明朝体が発明された。
中国・日本の書物の活字印刷は、19世紀中期までは、少部数書籍に限定された。李氏朝鮮以外では一般的ではなかったので、活字の書体は整版の書体と同じである。
書聖とよばれただけあり、後世の書への影響は絶大であった。 後の時代の書家はほぼ全員が王羲之を手本として、なんらかの影響を受けたと言われている。 そのため、書道を習う者はまず王羲之を学んでから他を学べとさえ言われた。 科挙においても王羲之の技法で書かなければ答えが合っていても合格にならなかったと言われている。 文字通り王羲之の文字でなければ文字にあらずとさえ言われたのである。
王羲之といえば、書の方面で余りにも有名であるが、その一方で、熱心な道教信者でもあった。その書の中にも丹薬の服餌などの事柄が登場している。
呉では、丞相を勤めた徐温の死後、その養子である徐知誥が太尉・中書令となって政治の実権を握っていた。931年には、金陵(現在の南京)に駐屯するようになり、子の徐景通(後の南唐の2代目の君主)を呉の都である江都にとどめて政治を任した。徐知誥は933年には斉王となり、さらに937年10月に呉の皇帝である睿帝(楊溥)から禅譲を受け、皇帝として即位し、国号を斉とした。
徐知誥は養子になる前は姓が李であり、これは栄華を誇った唐の歴代の皇帝の姓の李と同じであった。このため、938年に徐知誥は自らの姓を李に戻し、自分は唐皇族の李恪の末裔であるとして、国号を唐とした。さらに、徐知誥は自分の名を知誥から?に変えた。すなわち、徐知誥の姓名はこれより後、李?となる。李?は対外戦争を起こさないようにして、内政を充実させて国力を増強した。例をあげれば、隣国の呉越で大火災が起きて宮廷や倉庫・軍隊に大損害が起きたときに、群臣は呉越が疲弊している今こそが呉越を攻める機会であると進言した。しかし、李?はこの進言を無視し、逆に呉越に火事見舞いを送ったのである。
李の死後、子の李m(先述の徐景通と同じ人物)が後を継いだ。李mは父と違って、対外拡張政策を進めた。現在の福建省に割拠した?では後継者争いが続き、国政が混乱していた。李mはこれに乗じ、945年に?を滅ぼした。さらに福州を攻めたが、呉越の銭佐に敗れた。
現在の湖南省に割拠していた楚でも、後継者争いが続いていた。950年に当時の楚王の馬希広の兄である馬希萼が南唐と結んで、馬希広を殺した。馬希萼は楚王となり、南唐の臣下と称した。しかし、翌951年に馬希萼が部下に追われると、南唐は軍勢を楚に差し向け、楚を併合した。ここに、南唐は現在の行政区分で言うと江蘇省・江西省・安徽省・湖北省・湖南省・福建省を領するようになり、南唐のおよそ40年の歴史の中でこの時版図は最大になった。